【武将列伝】武田信玄(たけだしんげん)

川中島の戦いで有名な武田信玄は1521年12月1日、甲斐の国の躑躅ヶ崎館で生まれる。

 

甲斐の虎ともいわれた武田信虎の嫡男として生まれる。

 

武田信虎は戦ばかりしており、戦は強いのだが政治力、統制力に欠けていたといわれる。

それ故領民などからは嫌われていたという。

 

そんな甲斐の国を立て直したのが武田信玄。

 

武田信虎の時代には甲斐の国を統一するのが目標といった感じで乱戦状態だったが、1520年頃には甲斐統一を成し遂げていた。

その約1年後に武田晴信という名で誕生した。

 

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実は長男ではない!?
実は武田信玄には竹松という兄がいるのだが、原因不明の病気により7歳で急死したため、事実上武田晴信が長男となる。

1525年には弟の武田信繁も生まれた。

後にこの武田信繁は信玄の命を救うこととなる。

 

今川家との和睦成立

 

そしてこの頃、駿河にいる今川家との和睦が成立した。

駿河今川氏とはずっと争っていた関係にあった。

福島正成率いる軍勢などが度々押し寄せてきたという。

その度に武力自慢の武田信虎は撃退していた。

 

諏訪家との戦い

 

1542年6月に晴信は諏訪家領土に侵攻する。

諏訪家側から和睦を申し入れる結末となり、諏訪頼重を甲斐の国に連行して自害させる。

これで事実上、諏訪領を制圧したことになる。

 

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村上義清との激突

 

1548年2月、晴信は村上義清が守る葛尾城に攻撃を仕掛けることを試みる。

結局、上田原で激突する。

上田原の合戦で武田軍は敗れており、甘利虎泰、板垣信方などの武将を失っている。

晴信も傷を負っている。

そのさなか・・・

 

小笠原長時、攻めてくる

これを機会に小笠原長時が進行してくる。

しかし、ここは信玄以外の強力騎馬軍団(馬場信房、飯富虎昌など)で撃退した。

ここで小笠原家は大きく衰退した。

 

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真田幸隆、ここにあり

上田原の戦いでは大敗した武田軍だが、真田幸隆の計略により砥石城を落城させると、段々と勢力関係を優勢にしていく。

そして村上義清は1553年4月、葛尾城を捨てて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ逃れることを余儀なくされた。

しかし、村上義清は上杉家臣となり活躍するのである。

 

川中島の戦い、幕を開ける

1553年になると上杉謙信は信濃の国に侵攻をする。

上杉の騎馬隊は強烈で、武田軍の先鋒部隊を八幡にて攻撃され、破滅する。

 

武田軍が甚大な被害を受けたのは第四次川中島の合戦。

武田軍の副将を務めていた武田信繁(信玄の弟)は殿となって討ち死に、軍師の山本勘助も戦死となった。

その他3名ほど討ち死にしている。

 

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西上野へ侵攻

 

川中島の戦いと同時に箕輪城を攻撃した。

しかし、上杉家臣の長野業正の活躍が光り、落城までには至らなかった。

武田信玄は「業正がいる限り上野には手を出せぬ」といったという。

しかし1561年に業正が病死すると、息子の業盛に代わった。

そこで信玄は再び箕輪城を攻撃すると、今度はたやすく落とせたという。

業正の時の教訓を家臣に何度も伝えたという。

城の特徴から攻め方からすべて。

 

長男武田義信、謀反!一大事!

なんと長男の武田義信が謀反を起こしてしまうのだが、いったいなぜ起こしてしまったのか?

どうやら、今川氏真の妹が武田義信に嫁いでおり、桶狭間の戦いと徳川家康独立の動揺に付け込んで信玄が今川領に侵攻しようとしたため

義信が怒ったという。

そしてじいの飯富虎昌と共謀して謀反を起こしたというが、飯富虎昌の弟、昌景が信玄にチクったため、バレて飯富虎昌は処刑され、幽閉されていた武田義信も自害した。

こうして武田家は二人も主力武将を失ったのである。

 

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織田徳川軍に圧勝!実力見せつけた武田軍 三方ヶ原の戦い

1571年12月22日、三方ヶ原にて織田徳川連合軍を自慢の武田の騎馬隊で撃破した。

織田軍が主力ではなかったことが理由の一つでもある。

当時織田信長は石山本願寺の一向門宗徒などと戦をしていたため、武田対策としては佐久間信盛程度の武力の武将しか援軍に出せなかったことが一つの織田徳川連合軍の敗因と言える。

おそらく柴田勝家あたりを援軍に出していたら戦は分からなかったと個人的には思う。

 

飯富昌景や秋山信友の活躍が光った。

徳川方の城を1日で落としたこともあった。

 

信玄の最期

三方ヶ原の戦い後半の頃から信玄は度々吐血を繰り返していたことなどから病気が悪化していたことが伺える。

最後の遺言として、「自身の死を3年間は隠し通し、まずは領土を固め内政をきちんと行う事」とある。

しかし、勝頼はそれを破ってどんどん戦を仕掛けていったため、後に武田家は衰退してしまうこととなる。

 

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