【武将列伝】織田信長(おだのぶなが)

織田信長は1534年5月に尾張国の戦国大名、織田信秀の子として生まれる。

生まれた城については勝幡城とされているが、定かではない。

幼少期

信長は幼少期、馬鹿げた行動が多く、「大うつけ」と呼ばれていた。

尾張国の農民などからもこれからの尾張について不安の声が上がっていた。

 

信長は、元服する前から信秀から那古野城を譲られる。

同時に城主となった。

信長元服

1546年に古渡城で元服する。

この時、信長13歳(数え年)。名前は三郎信長としていた。

家督継承問題

ただ信長の前には大きな壁があった。

家督継承問題である。

 

敵の織田信行側の武将と戦って勝利すると、しばらく清須方との戦いが続く。

 

1553年、信長のじいである平手政秀が自害すると、信長はひどく悲しんだという。

この頃、同時に信長は正徳寺の会見を斎藤道三と行った。

斎藤道三は大うつけと呼ばれていた信長の器を見抜いていたらしい。

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斎藤道三、死す

しかし、1556年4月、斎藤道三が子、斎藤義龍との戦いで敗死してしまうのである。

この時、織田信長陣は木曽川を越えるところまで出陣するが、斎藤義龍軍の勢いに押されたという。

斎藤義龍本隊と日根野弘就隊が勢いがあったと思われるが、ここについては定かではない。

 

桶狭間の戦い

 

東海の巨人、今川義元が尾張国まで侵攻する。

今川軍は4万人の大軍であった。

それに対して織田軍は数千人程度だった。

ここで織田信長が威力を発揮する。

信長は奇襲策を選択し、酒を飲んで休憩中だった今川の本陣に対して襲い掛かる。

毛利新介は今川義元に指をちぎられたが、助太刀に入った服部小平太が最後は今川義元を仕留めた。

斎藤家との関係の悪化

 

斎藤義龍が1561年に何らかの病気で急死すると、子の龍興が大名となる。

龍興は非常に能力が低く、織田信長が美濃国に出兵して勝利してしまうのである。

稲葉山城を攻略する。

その後、稲葉山城を岐阜城と改名する。

道三の時とは打って変わり、斎藤家との関係は非常に険悪なものとなってしまうのである。

 

足利義輝暗殺される

 

その頃、京では非常に不穏な動きがあった。

三好義継、三好長逸、松永久通が協力して14代将軍の足利義輝を暗殺してしまう。

足利義輝は剣豪だったため必死に対抗はしたが暗殺されてしまった。

意表を突かれると人間どうしようもないものである。

足利義昭は松永久秀に保護されており、無事だった。

 

浅井家との同盟

 

斎藤家を牽制するために浅井家と同盟を結ぶ。

その際にお市の方を嫁がせている。

のちにお市の方は浅井三姉妹を産む。

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足利義昭、諸大名に協力を求める

 

足利義昭は奈良を脱出すると、諸大名に上洛への協力を求めた。

これを受けて信長も当時足利家臣の細川藤孝に上洛に協力するという内容の手紙を送った。

これを受けて足利義昭は織田信長と美濃斎藤家との合戦を停戦させることに成功した。

 

ところが、どうしても邪魔者だったのか、信長は美濃斎藤家との戦いを再開してしまう。

信長は河野島の戦いで大敗を喫してしまう。

屈辱を味わった信長は、義昭の上洛を目指すとともに、齋藤家の脅威を消滅させなければならないという大きな課題が残る結果となった。

天下布武

また、この頃、信長は「天下布武」の朱印を使い始めた。

天下布武という目標が現実味を帯びてきたと考えたのだろう。

 

足利義昭、朝倉義景のもとに身を寄せる

 

三好の連中から襲撃される危険を避けるため、京から朝倉義景のもとに身を寄せていた。

しかし、朝倉家は本願寺家と対抗しており、上洛という状況ではなかった。

そのため、足利義昭の行き場所が難しい状況であり、室町幕府は崩壊の危機にさらされていた。

 

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伊勢国司、北畠具教との戦い

 

続いて伊勢攻略を考えた。

北畠家は南北朝時代以来の国司である。

織田信雄を養子として送り込み、織田信雄に北畠具教を暗殺させた。

これで北畠具教討伐プロジェクトは終わった。

同時に伊勢を手中に収めた。

 

朝倉、浅井、本願寺・・・絶えぬ反織田勢力

1570ねん4月、朝倉義景を討伐するため、越前に進軍する。

織田軍は朝倉の城を攻略していくが、決めきれない。

ここで事件が起こる。

浅井長政が謀反を起こし、織田軍に攻撃してきたのである。

織田軍は挟み撃ちにされて大ピンチ!

しかしここは明智光秀と猿(木下秀吉)の殿(しんがり)活躍が光り、京に無事たどり着いた。

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立て直して浅井家討伐へ

1570年6月、信長は浅井長政を討伐するために姉川で徳川軍&織田軍対朝倉軍&浅井軍で勝負。

浅井方の横山城を攻略し、徳川&織田軍の勝利。

同じく8月に三好三人衆が挙兵したため、これを攻撃しに出陣するが、本願寺家が信長に対して挙兵したのである。

さらに浅井&朝倉軍3万が近江に到着。

極めて劣勢の中で戦を行い、森可成と織田信治が戦死する被害を受けた。

足利義昭との対立の予感

1569年1月14日、信長は足利義昭の将軍としての威力を牽制するため、殿中御掟9か条を発令し、義昭に承諾させた。

ただこの段階ではまだ関係はそこまで悪くはなかった。

お互いがお互いを認め合って利用することを考えようというのが両者の考えであった。

比叡山延暦寺焼き討ち 浅井朝倉連合軍に勝利

1571年には比叡山を焼き討ちにして宗徒3000人もの首を斬ったという。

なんとも残虐な信長であるが、このまま勢いは止まらない。

1573年には朝倉義景を自害に追い込む。

朝倉景鏡にも裏切られている程である。

そして浅井家の武将・阿閉貞征が内応したところに付け込んで小谷城を攻める。

8月28日に浅井久政(当時隠居)が自害して、9月1日に浅井長政も自害する。

長男の万福丸は磔にされる。

信長の妹お市の方とその娘茶々、初、江は落城前に逃げ出していたため助かった。

信長も妹たちの脱出を喜んだという。

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一番の悩み・長島一向一揆を鎮圧

 

1574年、長島の一向一揆鎮圧に成功した。

ただ、織田側の有力武将が3名ほど、討ち取られている。

この原因は九鬼嘉隆らが海を遮った為、毛利家などからの兵糧補給などが途絶えたためとされている。

一方・武田信玄には三方ヶ原でさんざんに・・・

一方、武田信玄の侵攻はどうすることもできなかったようだ。

徳川軍&織田軍対武田軍という戦いになったが、武田の騎馬隊が素晴らしかったようである。

武田信玄に惨敗した。

しかし、武田信玄の病死によりリベンジを果たすのである。

長篠の戦いで武田勝頼に挑んだ!

1575年、長篠の戦いで武田勝頼に挑んだ。

織田・徳川連合軍は大量の鉄砲を用意した。

それを3回に分けて撃つ戦法が見事大当たりし、武田の騎馬隊を撃破したのである。

1回は失敗しても2回は失敗しないのが信長の強みでもある。

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中国地方攻め

時は進み、1582年、秀吉による中国地方攻めを始めさせた。これの援軍として明智光秀を行かせていきました。しかしこれが後に信長の身を危うくすることになるのです。

本能寺の変

事件が起きたのは6月1日夜。明智光秀の2万の大軍が信長のいた本能寺を襲った。

最初は信長も槍を持って応戦したが、敵わぬと察すると6月2日、未明、自ら寺に火をかけて一緒にいた森蘭丸らと共に自害した。

数え年49歳だった。



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